Yuma NISHIO
西尾祐馬
1995年兵庫県神戸市生まれ。
2017沖縄県立芸術大学美術工芸学部彫刻専攻卒業
活動歴
2019
オーバースローoverthrow FL田SH 東京都渋谷区
前橋映像祭2019 前橋シネマハウス 群馬県前橋市
2018
BARRAKアンデパンダン BARRAK 沖縄県那覇市
2017
SAIKO ART FESTIVAL'17 西湖湖畔 山梨県南都留郡
第28回沖縄県立芸術大学卒業・修了作品展 沖縄県立博物館・美術館 沖縄県那覇市
前橋映像祭2017 旧安田銀行担保倉庫 群馬県前橋市
2016
奥村直樹ノ友達展 DESK/okumura 東京都中央区東日本橋
しゃがみ弱パンチ美術館in津島 津島つむぎまち 愛知県津島市
彫刻の五七五展 沖縄県立芸術大学附属芸術資料館 沖縄県那覇市
前橋映像祭2016 旧安田銀行担保倉庫 群馬県前橋市
ソサエティ 吾妻吟宅 東京都小平市2015
しゃがみ弱パンチ美術館「52Hz,homing」中野ZERO美術ギャラリー 東京都中野区 “KITAJIMA/KOHSUKE”#11台風のくれたテーブにつけ カタ/コンベ 東京都中野区
金沢彫刻祭2015 金沢市民芸術村 石川県金沢市
しゃがみ弱パンチ美術館「52Hz」 コザクロッシング 沖縄市
1995#2展 95年画廊前橋映像祭2015 大蓮寺 前橋市
われわれのリアル展 SPACE BUMPY 那覇市
2014
第五回東京アンデパンダン展 EARTH+GALLERY 東京都江東区
「反戦 来るべき戦争に 抗うために」展 SNOW Contemporary 東京都世田谷区
イノチノカタチ展 沖縄県立芸術大学芸術資料館 那覇市
スクランブルヒロシマ 旧日本銀行広島支店 広島市
DigDig Personal 展 沖縄県立芸術大学付属芸術資料館 那覇市2013
とぅーてん Gallery Space PinoO 那覇市
その他の活動
2017
「美しければ美しいほど The more beautiful it becomes」展 展覧会協力 丸木美術館 埼玉県東松山市
マルチ・スペース 特火点 – tochkaメンバー(HP:http://tokkaten.org/)
2016
「Meets Nights at Barrack キュンチョメ×手塚太加丸×西尾祐馬」Barrack 那覇市
2014
共同スタジオ『SPACE BUMPY』運営(2014年から)
「RE:HENOKO報告会&ミーティング」気流舎 東京都世田谷区
2013
「未来へおじさんの部屋in沖縄 遠藤一郎×西尾祐馬」
賞歴
2017
西銘順治賞受賞
メディア掲載情報
2016
沖縄タイムス12月7日号文化面 作品写真と作品評掲載
2015
沖縄タイムス9月4日号 「しゃがみ弱パンチ美術館52Hz」展の展評掲載(友寄寛子)
しんぶん赤旗 7月27日号コラム掲載
2014
美術手帖12月号「反戦来るべき戦争に抗うために」展の展評掲載(椹木野衣)
ある特定の時代や場所に於ける歴史や政治的事象を、その当事者でない者が扱おうとする際に生じる断絶と限界と倫理的な問題。それらとどう対峙し、表象すればよいのかというテーマの元、太平洋戦争末期に瞬間的に興った”セメント彫塑”と呼ばれる彫刻運動を現代に蘇生させようとしています。
①記念碑について
我が国において公共彫刻が登場するのは19世紀末のことである。今日、「公共彫刻」というと公共の場に設置された彫刻が想起されるが、彫刻という制度が導入された19世紀から1940年代までの我が国においては公共彫刻とは公共の場”に”設置されるものではなく、公共の場”を”作るための、(国家の貢献者としての)偉人の像容を利用し、民族精神を発揚するための国民的記念碑に他ならなかった。 我が国に於ける彫刻の黎明は不特定多数が集う場に設置された像を媒介として、人々に近代的な”国民” としての意識を共有させるための記念碑であり、結果としてその場を「公共の空間」へと変換する装置 であった。同時代、彫刻という概念の輸入元である欧州に於いては近代国家の成立に並行するように、 彫刻は宗教から、そして記念碑としての役割から解放され、自律性を志向していく。その自律性への志向こそが近代=モダニスムに不可欠な要素であった。しかし、我が国に於いては近代を導入するために近代以前の彫刻が近代化のための装置として利用されたのである。
②日本的モニュマンタル彫塑とセメント彫塑運動
詩人で彫刻家の高村光太郎は1941年12月8日、大政翼賛会第二回中央協議会において「全国ノ工場施設ニ美術家ヲ動員セヨ」という議案を提出した。国民の士気は健康な精神生活にあり、それを得るためには日常の健康な美の力に培われると考える高村は、凡ゆる軍需工場の食堂・休憩所・合宿所・病院等に美術家を動員し、壁面彫刻・壁画・日用品・ビラなどの図案や製作に従事させるべきだと主張した。それに呼応するように高村光太郎を顧問、三越百貨店を後援、中村直人・柳原義達・円鍔勝二らを会員として「大東亜建設の国家的要請に即応し国威の発揚と日本的モニュマンタル彫塑を完成し、以って指導的世界文化の確立を期す」という綱領を掲げる造営彫塑人会が発足する。洋画・日本画・彫刻など凡ゆる分野の美術家達によってこのような団体が数多く設立されるが、全ての団体は1943年5月18日に発足した横山大観を会長とする日本美術報告会に統合される。皮肉なことにこの日本美術報告会の発起人は戦後、長崎の平和祈念像を制作する北村西望である。それはさておき、こうして翼賛体制下に於いて美術家達はプロパガンダの担い手となり、彫刻家達は国威発揚のための記念碑制作を担って行く。しかし、日中戦争の泥沼化と太平洋戦争に伴う総力戦体制への移行により彫刻制作に必要な銅・石膏・石材・燃料等が不足する。彫刻の制作が困難になる中、 関東大震災以降、建築分野で利用が進んでいたセメントを当時東京美術学校の教授であった和田三造と森田亀之助がが素材として着目し、東京美術学校にセメント研究科が開設される。敗色が濃厚となる1944年、陸軍省は上述の造営彫塑人会の会員であった中村直人を班長として、円鍔勝二・柳原義達・木下繁などを構成員とする軍需生産美術推進隊彫塑班を設立。彼らは全国の炭鉱に産業戦士と呼ばれた銃後の炭坑夫を顕彰する ためのセメント製の記念碑を大量に設置した。時勢の要請と物資不足という憫然たる理由によって誕生したセメント彫塑は斯くして日本彫刻史上(私の中では)特筆すべき運動として結実する。
③戦後のセメント彫塑と記念碑たちの戦後
太平洋戦争末期に瞬間的に興ったセメント彫塑運動であるが、運動を継続する間も無く日本は敗戦を迎え、セメント彫塑は歴史の闇へと忘却されることとなる。一方で、戦後、かつて都市の公共空間 に屹立していた銅像たちの多くは戦中の金属供出により兵器へと姿を変え、残された数少ない銅像たちもGHQの圧力の下に撤去される。敗戦後の公共空間には米軍による空襲によって焼き尽くされた荒地と、記念碑としての機能を奪われた荘厳な台座だけが残った。国家を身体として捉えた場合、公共空間に屹立する記念碑としての彫像は男根に他ならない。記念碑を失った日本は去勢されたのである。去勢されたことを証明するかの如く、戦後の復興に並行して去勢された台座たちの上には「平和」や「自由」といった題を冠する裸婦像が、かつてその場所に勇ましい軍人や国家に奉仕した政治家、記紀に登場する神々の像など無かったかのように設置されていく。それも、戦前には国威発揚のための記念碑制作を担っていた彫刻家達の手によって。
ここでセメント彫塑へと話を戻したい。セメント彫塑には記念碑として重大な欠陥があった。それは素材であるセメントが風雨と太陽光によって容易く劣化するということである。(本来、記念碑はその機能のために不朽でなければならない。故に自然環境下において劣化し難いブロンズや石で制作されるのが定石である。)この欠陥によって今日、現存するセメント彫塑はほぼ無いに等しい。記念碑として制作されたセメント彫塑たちは敗戦から今日に至るまで破壊されるでもなく、撤去されるでもなく、忘却されたまま廃炭鉱の片隅で朽ち果てていくのである。私はこのセメント彫塑たちに千利休の提唱した侘・寂の概念や本居宣長の「もののあはれ」の概念を強く想起し、日本的な彫刻があり得るとすれば、その可能性はセメント彫塑にあるのではないかと考えた。
④旧日本軍の特火点、在日米軍基地、福島第一原子力発電所原子炉建屋、巨大防潮堤、セメント彫塑。
私はセメント彫塑を現代に蘇生することで、現在問題になっている様々な施設・装置などにまでセメ ント彫塑の概念を強引に拡張できるのではないかと考えた。例えば、現在も日本各地に現存する太平洋戦争末期に乱造された本土決戦用の防御陣地「特火点」や、未だに日本各地に固定されている在日米軍基地、東日本大震災で爆発四散した福島第一原子力発電所原子炉建屋と津波対策という名目で三陸地方の海岸線に現在建設されている巨大防潮堤など、これら全ての主材料はセメントである。この大スペクタクルなセメントの塊達は、敗戦と隷属、我が国の愚かな歴史の記念碑である。これらこそ上述の”日本的モニュマンタル彫塑”の一つの完成なのではないかと私は考えている。
今日の日本において民族的な記念碑があり得るとして、それはどのような形で立ち現れるのだろうか。 私は「セメント彫塑」という歴史の闇に忘却された記念碑たちを蘇生させることで、今日の記念碑に ついて考え、来たるべき歪な記念碑的な何ものかに備えたい。まだ戦争には間に合う。
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